がらくた処分場

Trick please.(原題/ハロウィンの夜、兄妹が知らないおねーさんに悪戯される話)



1: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:07:13 ID:sccwbCZc


回覧板:町内の皆様へ


10月31日はハロウィン、夜には仮装をした子供達が近所を訪ねて回る日です。

お菓子の用意があり子供達を受け入れて頂けるお宅は、ジャック・オ・ランタン(紙に描いた絵などでも構いません)を玄関に飾ってあげて下さい。

町内の子供達にはそれを目印に訪問するよう伝えます。

できるだけたくさんのお宅で子供達を迎えて下さいますよう、ご協力お願いします──


妹「──お兄ちゃん、なに見てんの?」

兄「ん、回覧板きてたんだ」ペラッ

妹「お隣に回して来ようか?」

兄「あとで頼むわ。さて……ハロウィン、どうするかな」

妹「あー、その案内なんだ」



2: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:08:44 ID:sccwbCZc


兄「ハロウィンは今年も平日だから、親父は仕事だしなぁ」

妹「そうだねぇ……お父さん、だいたいこの時期から年末までは帰り遅いし」ウーン…

兄「ウチみたいな父子家庭はこういう時が難しいよな」

妹「仮装した子供を迎えようにも、ウチにも子供しかいないってね」


兄「ま、親父がお菓子代だけ出してくれるなら俺が迎えてもいいんだけどさ」

妹「お兄ちゃんが?」

兄「来年には高校生だ、もう仮装してお菓子もらおうって歳じゃないし」


妹「そっか……私、どうしよっかな」

兄「お前はまだ中一なんだし、子供達に混じればいいと思うよ」



3: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:09:43 ID:sccwbCZc


妹「クラスの子も何人か仮装するって言ってたけど……でも衣装の準備とか、ちょっとだけ面倒くさかったり」テヘヘ

兄「ワシがお裁縫とかできなくてすまんのぅ……」ゲホゲホ

妹「おじいちゃん、それは言わない約束でしょ」クスクス


兄「お前がしたいようにすればいいけど、俺に気を遣う必要は無いからな?」

妹「うーん……じゃあ、私も家で子供達を迎える側になってみる!」フンス

兄「当日までに決めればいいよ。とりあえず回覧板には『受け入れ可』にハンコ押しとく」ペタッ


妹「んじゃ、お隣さんに持ってってきまー」

兄「へいへい、頼んだ──」



4: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:10:18 ID:sccwbCZc


……………
………


…10月30日、夜


妹「──40袋目ぇっ!」

兄「あと10袋作っとくぞー」ガサガサ


妹「けっこう大変……やっぱり箱にドサッと入れて掴み取りさせる方式にすればよかった」

兄「『可愛い袋に小分けしてリボンかけよう!』とか言い出したの、お前な」ヤレヤレ

妹「めっちゃリボン結ぶの下手で最初の十何個かやり直ししたのは、お兄ちゃんのせいだしー」


兄「カントリーママンが足りなくなってきたぞ……」

妹「お兄ちゃんが2枚ずつ入れるからじゃん、チロロチョコで代用しとこうよ」



5: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:10:52 ID:sccwbCZc


兄「しっかし、まさか親父がこんなにお菓子代くれるとはな」

妹「封筒開けたら諭吉さんだったからびっくりしたよ」

兄「こんだけ買っても、4千円近く残ってるぞ」

妹「サイゼリ屋で豪遊しちゃう? しちゃう──?」フンスフンス


…ガチャッ


父「──ただいま……うわ、リビングすごい事になってるな」

兄「おかえりー。ごめん、今がいちばん物が溢れてるタイミングなんだわ」

妹「お風呂できてるよー」


父「ほほう、こりゃまた凝った包装にしたなぁ」

妹「せっかくのお祭りだしね」



6: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:11:26 ID:sccwbCZc


父「父さんが子供の頃にはハロウィンなんて意識もしなかったが」

兄「まあだいぶ浸透したな……って思うのは、ここ数年だよね」


父「2人とも、このイベントは好きか?」

妹「うん、好き」

兄「ただの平日にお楽しみイベントがあるって考えると、そりゃ嫌いじゃないよ」

父「……それはよかった」ニコッ


妹「よかったの?」

父「ああ、こういう行事をちゃんと楽しめるのは素直の証しだ」

兄「いぇーい、反抗期真っ最中だぜー」ヘッヘッヘッ

父「本当に酷い反抗期なら、たぶん自覚せんよ」ハハハ…



7: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:12:02 ID:sccwbCZc


父「しかし、それなのに2人とも子供を迎える側でよかったのか?」

兄「俺はいいんだよ、子供好きだし」

妹「私もー」


父「そうか……すまんな」

兄「いいんだってば、仕事忙しいんでしょ?」

妹「そうそう、それにお菓子を用意して迎える側もやってみたかったっていうか」

父「うん、うん……大きくなったもんだ」

兄妹「よせやい」テヘヘ


父「ところで、お釣りは?」

兄妹「よせやい」プイッ



8: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:12:38 ID:sccwbCZc


……………
………


…ハロウィン当日、夜


ポニテ「──わ、やった! 板チョコ入ってる!」キャッキャッ

スポ刈「ずりぃ! 俺のなんかチョコはブラウンサンダーだぞ!」

メガネ「でも代わりにじゃがぴこ入ってるじゃん」


兄「中身はちょっとずつ変えてるけど、そんなに大差ないようにはしてるぞー」

妹「チョップチュッパスはどれにも入れてるしね!」


スポ刈「ほんとかよー? 仮装の出来で選んだりしてない?」

兄「だったらお前の『トイレットペーパー顔に巻いただけミイラ男』なんか、うみゃー棒1本だわ」

スポ刈「なにぃっ!?」ガーン

メガネ「ざまぁ」プププッ



9: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:13:28 ID:sccwbCZc


妹「ポニテちゃんの仮装は気合い入ってるね!」

兄「うん、可愛いオオカミ少女だ」

ポニテ「えへへー、お母さんが先月から作り始めてたんだ」テレテレ

メガネ「僕の吸血鬼衣装もなかなかでしょ?」キラーン

兄「そうだな、色白だしよく似合ってるぞ」


スポ刈「んじゃ、そろそろ次の家に行こうぜ!」

ポニテ「9時までには帰れって言われてるし、もうあんまり時間ないんじゃない?」

メガネ「さっき会った本屋の兄ちゃんに訊いたら、その時で8時20分って言ってたけど……」



10: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:14:15 ID:sccwbCZc


兄「本屋の……って、俺のクラスの?」

スポ刈「あ、そうか。兄ちゃん同級生だっけ」

ポニテ「ぜんぜんリアルじゃないゾンビの仮装してて、笑っちゃった!」

兄「まじかー、見たかったな」


メガネ「板金屋の兄ちゃんにも会ったよ……っていうか、お化けシーツ被ってたから声しか判らなかったんだけど」

兄(そっか……あいつら、今年も近所回ってたのか)


ポニテ「それじゃ、ありがとー! お邪魔しました!」ペコッ

兄「ん……こちらこそ、来てくれてありがとな」

妹「来年も待ってるよー」ニコニコ


……パタンッ、タタタタッ
カエッコシヨウゼー
ヤーダヨー……



11: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:15:03 ID:sccwbCZc


妹「ふぅ……喜んでくれたね」

兄「もうお菓子袋もほとんど無いぞ」

妹「ぐぬぬ、たっぷり残ったら今後のおやつライフが充実するとこだったのに」

兄「せっかく袋分けしたんだから、貰われた方が嬉しいだろ」

妹「それはそうなんだけどね」


兄「……結局お前は仮装しなかったけど、本当に良かったのか?」

妹「ちょっとだけ寂しい気もするけど、迎える側をやるのも楽しいし。やっぱり子供達って可愛いしね」

兄「ほほう、さすが中学生。親父の言う通り大きくなったもんだ」


妹「お兄ちゃんの妹なのは変わらないんだから、内緒で用意してるスペシャルお菓子袋とかくれてもいいんだよ?」

兄「ねーよ」

妹「世知辛ぇぜ……」フッ…



12: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:15:38 ID:sccwbCZc


妹「でも、ほんと去年より更に盛り上がってる気がするねぇ」

兄「ただの仮装イベントとしてだけどなー」


妹「外国のハロウィンって、もっと違う感じなのかな」

兄「発祥を言えばケトル人の収穫祭であり、魔除け祈願だったりしたらしいよ」

妹「誰そのヤカン星人、もしかしてケルト?」

兄「ケルトって言ったけど?」

妹「ほっほーう」


兄「ごほん……なんでも日本のお盆みたい側面もあって、死者の魂が家族の元へ訪れる日だとか」

妹「へー、詳しいね」



13: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:16:24 ID:sccwbCZc


兄「でも同時に悪い霊なんかも現れるから、ジャック・オ・ランタンはそれを近寄せないためのおまじないなんだってさ」

妹「我が町内では『お菓子の準備がありますよ』サインだけどね」


兄「ランタン、まさか我が妹が本当にカボチャくり抜いて作ってるとはな」

妹「遊びに全力です」フンス

兄「なかなかよく出来てたよ、あれなら霊も寄って来られまい」

妹「だけどそれじゃ、良い霊も近寄れなかったりするのかな?」


兄「……そこまでは調べてないな」

妹「よく知ってると思ったらネット知識だったかー」

兄「やかましいわ」



14: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:16:59 ID:sccwbCZc


妹「さーて、まだ来るかな?」

兄「もう8時半も過ぎてるし、どうかな」

妹「9時になったらお風呂入ろっと」


……ポツ、ポツ
サーーーーーーッ……


妹「……あれ? 雨降りだした?」


兄「あー、こりゃもう来ないわ。街中で仮装してる人とか大変だろうなー」

妹「ランタン片付けてくる!」ガチャッ

兄「俺がやろうか? ロウソク熱くて出せないだろ──」



15: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:17:34 ID:sccwbCZc


ザーーーーーッ
ピチョン、ピチョン……


妹「わ、けっこう降ってる!」

兄「ちょっと大粒だな」

妹「私の力作ランタンがー! 上にも穴開けてたから火が消えてるよ……」

兄「悪霊が来たりして──」


魔女「──あの、ごめんください」


妹「ん?」

兄(女の人……魔女の仮装してる)


魔女「急に降りだしてしまって……その、できれば」

兄「ああ、雨宿り。玄関でもいいですか?」

妹「どぞどぞ!」



16: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:18:15 ID:sccwbCZc


魔女「すみません、お邪魔しますね」

兄「大変でしたね。靴履く時の椅子だけど、どうぞ掛けて」

魔女「ええ、ありがとう」ニコッ


兄(大人……それも大学生とかじゃないよな。30歳はきてないだろうけど……)

魔女「さっきまで月が見えてたのに……びっくりしたわ」

兄「天気予報もこんなの言ってなかったですよ」


妹「タオル持ってきたー」タタタ…

魔女「まあ、色々とありがとう。ごめんなさいね」

兄「帽子どこか掛けますか?」

魔女「ううん、髪のセットをこれで押さえてるから脱げないの」



17: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:18:49 ID:sccwbCZc


妹「すごく本格的な衣装、素敵だなぁ」キラキラ

魔女「あらあら、嬉しいわね」ニコニコ


兄(目深気味に帽子被ってるからハッキリは判らないけど、けっこう綺麗な人だよな……)

魔女「……なにか?」

兄(……おっぱい大きいし)


妹「ハロウィンパーティーとかでも行ってたの?」

魔女「ええ……地元まで帰ってきたところではあったんだけど、あんな大粒の雨じゃ堪らないわ」

兄「メイクもしてるし、女性は大変でしょうね」

魔女「ふふ……お化粧が落ちちゃったら歳が誤魔化せないし?」

兄「そ、そんなつもりじゃ」ゴニョゴニョ



18: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:19:27 ID:sccwbCZc


妹「でもメイクもホント綺麗、ほっぺのお星様シールとかで可愛さもバッチリだし」

魔女「若さ故の可愛さにはとても勝てないわよ」


兄「妹の場合、まだ子供の可愛さですけどね」

妹「だまらっしゃい」ムムッ

魔女「あはは、兄妹で仲良しなのねぇ」


兄「普段はもっと生意気ですよ、おねーさん来てるから鳴りを潜めてるけど」

魔女「でも貴方くらいの歳で素直に妹を『可愛い』と言えるなんて珍しいと思うわよ」

妹「そういえば初めて言われた気がする」

兄「言葉のあやってヤツだな」

妹「感じ悪っ!」ベーーーーッ

魔女「ふふふ、お邪魔したのが楽しいお家で良かった」クスクス



19: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:20:00 ID:sccwbCZc


妹「パーティーは何人くらいで?」

魔女「たったの2人っきりよ」

妹「2人きり! もしかして恋人!」フンスフンス

魔女「さあ、どうかしら?」


妹「いいなぁ、大人になってするハロウィンパーティーとか……そういうの憧れちゃう」

魔女「お祭りはいくつになっても楽しめばいいのよ。私、ハロウィンは大好きなの」


兄「パーティーが……じゃなく、ハロウィンが好き?」

魔女「ええ、ちょっと思い出深くってね」

妹「恋バナの予感!」

魔女「あら、さすが女の子ね。実はハロウィンにプロポーズされたのよ」



20: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:20:36 ID:sccwbCZc


妹「えっ、おねーさん結婚してるの?」

魔女「あらあら、未婚に見えたなら嬉しいわ」

兄(旦那さんがいるのに、2人でパーティー? ……まあ、女性の友達となら有り得なくもないか)


魔女「だけどそのエピソードが面白くって、余計に思い出深くなっちゃったの」

妹「聞きたいでーす!」


魔女「ハロウィンってだんだんと浸透してきてるけど、以前はもっと影が薄かったでしょ?」

兄「そうですね、僕が小学校の低学年の頃は町内で仮装してる子なんかいなかったし」

魔女「私の夫……当時は彼氏ね、その頃はハロウィンに何をするのかよく解ってなかったのよ──」



21: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:21:11 ID:sccwbCZc


………



『──パンプキンパイ美味しかったよ、上手く焼けてたな』

『よかった、作った甲斐があったわ』


『ハロウィンにパーティーするなんて初めてだったけど、たまにはこんなイベントに乗っかって楽しむのも悪くないかも』

『ふふ……似合ってるわよ、フランケン・シュタイン博士』

『この怪物が博士なわけじゃないんだぞ?』

『あ、そっか……博士は造った人だっけ。あははは……』


『でもいくら仮装するって、チャームポイントまで隠さなくてもいいのに』

『ほっといて下さーい』

『ははは……まあいいけどさ。じゃあイベントに乗っかりついでだけど、本題に入ろうか』

『本題?』

『うん、プレゼント交換。気に入るといいんだけど──』



22: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:21:44 ID:sccwbCZc


………



妹「──ハロウィンにプレゼント交換?」

魔女「そう、可笑しいでしょ? あの人ったら、クリスマスみたいにプレゼント交換するつもりでいたのよ」クスクス

兄「なるほど、そのプレゼントってのが」

魔女「ええ、婚約指輪だった。私は何も用意してなくって、だから……じゃないけど代わりに『OK』をプレゼントしたの」

妹「なにそれ、映画みたい!」キャーッ


魔女「でも彼、すごく恥ずかしかったみたいで『まさかプロポーズで一生の語り草を作ってしまうなんて』って嘆いてたわ」

兄「OKされたからいいようなものの、そりゃ凹むだろうな……」

妹「それでもやっぱり素敵なエピソードね、ハロウィンを好きになるのも納得だよ」



23: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:22:23 ID:sccwbCZc


魔女「……あなた達は? 今日は仮装したり近所を回ったりしなかったの?」

兄「うん、今年は回ってくる子供達を迎える側になろうと思って」

魔女「そう……それは偉いけど、あなた達くらいの歳ならまだお菓子を貰う側でもいいのに」


妹「ハロウィンでも平日だから、お父さん遅いし……ウチはお母さんがいないから」

兄「でも町内の回覧板に『できるだけたくさんの家で子供達を迎えてあげて欲しい』って案内があって、それで決めたんです」


魔女「……偉いわ、本当に。子供達はたくさん来てくれた?」

妹「うん! 50も用意してたお菓子の袋、ほとんど無くなっちゃった!」エヘヘ

兄「みんな色んな仮装してて、迎えるのも楽しかったし……良かったかなって」



24: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:22:58 ID:sccwbCZc


魔女「子供達も喜んだでしょうね」

兄「喜んでくれてたと思います、うん……喜んでた」

妹「すごく楽しそうにはしてたよ」


魔女「……でも、子供達の楽しそうな様子を見るとちょっと寂しかったりしない?」

兄「最後に来た子達が俺の同級生が仮装してるのを見たらしくて、そういうのを聞けば……少しだけ」

魔女「それは当然なの……大人達の代わりをしようとするのはとても立派だけど、あなた達は本当の大人じゃないもの」


兄「母さんがいないのも親父の仕事も、仕方ない事だから」

妹「私が生まれてじきにお母さんは病気で死んじゃったから……2人とも覚えてないし、そういう事には慣れてるんだよね」



25: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:23:52 ID:sccwbCZc


魔女「慣れる事と理解する事は違うわよ?」

兄「……どういう意味です?」


魔女「どんなに母親のいない生活に慣れても、それを寂しいと思っちゃいけなくなるわけじゃないでしょう」

妹「でも、寂しがってたらお父さんに心配かけちゃうし」

魔女「親が子の心配をするのは、当たり前の事じゃない?」


兄「そうかもしれないけど……それでも心配な事は少ない方がいいじゃないですか」

魔女「それが慣れと理解の違いよ。あなた達は母親がいない事、お父さん1人で子育てをするには限界がある事を理解はしてる」

兄「でも、慣れてはいない……?」

魔女「そう、だってそれは慣れるものじゃない。あなた達が『寂しがっては見せない』けど『寂しいと思ってる』時点でね」



26: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:24:27 ID:sccwbCZc


魔女「心配は少ない方がいい……間違いじゃないわ。でも親は『子供に感情を飲み込ませて』まで、それを望んだりしない」

妹「そんな風に思わせないようにしてたつもりなんだけどな……」

魔女「ふふ……それでも親には解るものよ」


『──2人とも子供を迎える側でよかったのか?』

『俺はいいんだよ、子供好きだし』

『私もー』

『そうか……すまんな──』


兄(……親父は、それを謝ってたのかな)

魔女「でも、あなた達はいい子よ。それは間違いない、私が保証するわ」ニコッ



27: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:25:05 ID:sccwbCZc


妹「私は……今日のために仮装の準備をするのを、ちょっと面倒くさいと思ったの」

妹「お裁縫とか得意じゃないし、全部買って揃えるのも勿体ないし」

妹「でも、なによりも──」


『──ポニテちゃんの仮装は気合い入ってるね!』

『えへへー、お母さんが先月から作り始めてたんだ──』


妹「──友達は、けっこう皆お母さんが衣装を作ってくれるって」

妹「私は……たとえ自分で作っても、お母さんに見てもらう事もできない」グスッ

妹「きっと、本当はそれが……寂しかった」ポロッ…


兄「お前……そんな風に」ナデナデ

妹「ごめん、お兄ちゃんやお父さんに見せられたら充分なはずなのに……」ポロポロ…



28: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:25:39 ID:sccwbCZc


魔女「……お母さんは病気で亡くなったんでしょう。だったら誰の事も恨んだりしてるわけはない」

魔女「ただ、こんなにも可愛い子達を遺して逝った事だけ……きっと悔しがってる」


魔女「本当は誰よりも、あなた達にハロウィンの衣装を作ってあげたかった」

魔女「それを着せて、何十枚も写真を撮って、お友達も招いてお菓子を振舞って……」

魔女「参観日も、運動会も、文化祭も、早起きしてお弁当を作って送り出して、見に行って」

魔女「そんな当たり前の愛情をかけてあげられなかった事が、すごく心残りだと思う」


妹「見せたかった……よ……」グスン

兄「……そうだな」



29: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:26:37 ID:sccwbCZc


魔女「ごめんなさい……本当に」

妹「え?」

魔女「ううん……きっとお母さんは、そんな風にあなた達に謝りたいと思ってるわ」


兄「それは、それだけは違う……と思う」

魔女「……違うの?」


兄「だって謝られる理由が無い」

妹「うん」ゴシゴシ

兄「つまんない駄洒落とかも言うけど、あんな親父の元に俺を生んでくれて……妹も与えてくれて」

妹「成績そんなに良くないけど、2人とも身体はすごく健康だもん」


兄「物心ついてから会った事もないけど、それでも」

妹「うん……なんとなくだけど、お母さんの事……きっと大好きなんだよ」ニコッ


魔女「……っ」



30: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:27:45 ID:sccwbCZc


妹「おねーさん、どうしたの?」

兄(下を向いて泣いてる? ……まさかな)

魔女「……大丈夫、なんでもないわ」フルフル


ピチョン……ピチョン……


兄「あれ? いつの間にか雨が上がってるみたいだ」

妹「9時もとっくに過ぎてる。お父さんも帰り始めた頃だろうし、良かったね」

魔女「通り雨だったのね。……じゃあ、そろそろ私はおいとましようかしら」

兄(なんで俺も妹も、今日初めて会った人にこんな話をしちゃったんだろう……)


妹「そういえば飲み物も出さなかったね、ごめんなさい……」

魔女「お構いなく、すごくいい寄り道だったわ」



31: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:28:23 ID:sccwbCZc


魔女「来年、また子供達を迎える側になるのかは解らないけど……もしそうだったら」

兄「はい?」

魔女「今度は迎えるあなた達も仮装をして待っててみたらどうかしら?」

妹「あー、それも面白いかも」


兄「仮装した子を泣かすつもりでドア開けようか」ヘヘヘ…

妹「きっとあんなだけど、スポ刈くんが一番に泣くよ」クックックッ

魔女「こらこら、大人げないわよ……って、さっきあなた達を子供扱いしたけどね」


兄「海外なんかじゃ、迎える側も関係なく仮装してたりするらしいですね」

魔女「そうね、でもハロウィンに仮装するのはお遊びの意味だけじゃないから」



32: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:29:01 ID:sccwbCZc


妹「他にも意味があるの?」

魔女「ハロウィンは死者が家族の元を訪ねてくる夜でもあるの……知ってる?」

妹「お兄ちゃん、さっき言ってたよね」

兄「どうせネット知識だけどな」


魔女「それはつまり、冥界の扉が開く……言い換えれば生者と死者の区別が曖昧になる日という事よ」

兄「仮装って、もしかして?」

魔女「ええ……生者が死者に似た姿になる事で、死者をハッキリと見分けられないようにするものなの」


妹「なんでそうしなきゃいけないんだろう」

魔女「自分が話している相手を死者だと認識すれば、自分が生者だという認識があやふやになってしまう。……そうしたらどうなると思う?」

兄「冥界に引っ張られる……?」ゾクッ

魔女「……そういう説もあるわ」クスッ


妹「でも、本当に死んだ人が家族のところへ来るなら──」



33: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:29:44 ID:sccwbCZc


魔女「──生きてる人は死者を認識してはいけない」

魔女「だから死者は生者に、自らをこの世ならざる者だと悟らせてはいけない」


魔女「たとえ自分の家族に会ったとしてもね……ただ、願うだけ」

魔女「どうか愛する人達が健やかに過ごせますように……できるだけ先まで『自分の元へ来ませんように』って願うのよ」

魔女「生者は魔除けのランタンを焚いて悪霊もろとも死者を近寄せない、死者は近づかない……それでいいの」


魔女「だけどもし何かの偶然で、彼らが出会えたら」

魔女「名乗り出る事はできなくても、言葉を交わす事ができたら……それはきっと奇跡よ」

魔女「ハロウィンの夜がくれた、束の間でもかけがえのない奇跡の時間──」



34: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:30:25 ID:sccwbCZc


魔女「──いけない、帰るなんて言っておいてまた長居しちゃったわね」フフッ

妹「もっといてもいいのに」


魔女「……うん、ありがとう。じゃあ、せっかく仮装してお邪魔したんだから最後に言わせて貰おうかしら」

妹「え? なんだろ?」

魔女「ふふっ、大人が子供に対して言うなんて可笑しいわね。まあいい……かな?」

兄「ああ……そっか、そういえば」


魔女「Happy Halloween……Trick or Treat──?」



35: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:31:18 ID:sccwbCZc


兄「──Trick」

魔女「えっ?」

妹「私も……トリックがいい」

魔女「悪戯を選ぶの? 私があなた達に悪戯を……?」キョトン


兄「こんな事言うの失礼かもなんだけど……おねーさんと話してて『母さんってこんな感じかな』って思っちゃったんだ」

妹「悪戯でもなんでもいいから『何かをされたい』……可笑しいかな?」

魔女「ごめんなさい……悪戯なんて急には思いつかない」


フワッ、ギュッ……


兄妹「わっ……!?」

魔女「抱き締めるくらいしか、できないわ──」



36: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:31:52 ID:sccwbCZc


………



…ガチャッ


父「──ただいま。ごめんごめん、やっぱり遅くなってしまった」パタンッ

兄「おかえりー」

妹「おかえりなさーい、子供達たくさん来てくれたよー」

父「そうか、そりゃあよかった。迎える側は楽しかったか?」


兄「うん、悪くなかったな。どの子も可愛かったし」

妹「それに最後に大人も来たしねー」ニコニコ

父「大人も? 仮装して来たのか? ……町内の役員さんかな」



37: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:32:33 ID:sccwbCZc


妹「魔女の仮装した綺麗なおねーさんだったよ」

父「ほうほう、いいなぁ」


兄「おっぱいも大きかったし」プププッ

父「そこんとこ詳しく」キラーン

兄「たぶん二十代後半だと思うんだ」

父「なんと、旬じゃないか……」

妹「うわー、アホが2匹もいるー」


兄「あはは……大人だけど、ハロウィン大好きなんだってさ」

妹「素敵な思い出があるんだって、話してくれたよ」

父「そんなに仲良くなったのか」

妹「うん、すごくいい人だった。すごいんだよ、ハロウィンにプロポーズされたんだって!」

兄「それも『ハロウィンもプレゼント交換がある』って、勘違いした彼氏が指輪用意してたらしいよ。そりゃ思い出に残るよなー」



38: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:33:09 ID:sccwbCZc


父「……それは、どんな人だった?」

兄「だから二十代後半くらいの……」

父「そうじゃなく、顔の特徴とか身長とか」

妹「帽子を深く被ってたから、あんまり判らなかったんだよね。綺麗とは思ったけど……」

兄「身長どのくらいだったかなー? 椅子に座ってもらったからなぁ……」


父「そうか……いや、なんでもない」フゥ

兄「なに? やっぱ町内の人だったりするの?」

妹「あ、そうだ……ほっぺたに星のシール貼ってたよ!」

兄「そんなん身体的特徴にはならんだろ、剥がせば無くなるんだから」

妹「ちぇー」


父「……貼ってたのは、目の下くらいか?」

妹「そうだよ、このへん」ツンツン



39: ◆LyktYaZ0Wk :2017/10/20(金) 20:33:46 ID:sccwbCZc


『──魔女の仮装もいいけど、そろそろシール剥がさない?』

『やーよ、せっかく隠しても笑われない日なんだから今日はこのまま』

『泣きぼくろは立派なチャームポイントだろうに……まあほっぺたに星なんて、無邪気で可愛くもあるけどさ』

『持つ人にはそういうのもコンプレックスだったりするのよ? それに泣きぼくろって呼ぶには少し下過ぎると思うの』

『そうかなぁ……僕にとっては、そのほくろも含めて──』


父「……さぞ、美人だったろうな」

兄「そうは言ってもモデルさんや芸能人ってほどじゃないよ?」

父「いや、きっとそれは──」


『──世界一の美人だよ』




【おわり】



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テーマ:ショート・ストーリー - ジャンル:小説・文学

  1. 2017/10/23(月) 13:43:00|
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The Next Line.(Twitterひとつまみ創作会お題)



※この話はTwitterのタイムライン上で行った『ひとつまみ創作会』においてフォロワーの翡翠さんより投稿された一文を元に続きを書いたものです。冒頭の青文字部分がお題、赤文字部分が翡翠さんによる投稿文(を多少アレンジしたもの)となっています。


「──久しぶりね」


(どうやら人違いではないらしい、その女性は確かに僕の目を見据えて今の言葉を唱えた)


「あの、どこかで」

「覚えてないんだ?」


(長い黒髪を指で梳かし、彼女は言葉を続けた)



「……つ、次のセリフはなんだったかしら?」


ステージに立てば役どころを完璧にこなすクールビューティな先輩は、男女を問わず他生徒からの憧れの存在。

だが顔を赤く染める可愛らしい彼女を見られるのは僕だけだ。



先輩がクールビューティで通せるのは、持って生まれた才だけによるものではない。

勉強もスポーツも、それを保てるだけの努力を密かに重ねているからだ。

演劇部に属する彼女は仲間から「台本を一晩読んでくるだけで誰よりも上手く役を演じる」と評されるが、それもまた同じく努力の賜物なのだ。

僕はその様を昔から誰より近くで見てきた。


僅か一年の時を空けて隣同士の家に生まれ、まるで姉弟のように育ってきた僕ら。

小学生の時は友人にからかわれつつも、本人達は家族のつもりだから気にとめず毎日一緒に過ごした。

二人で夏休みの宿題を進めて、二人で虫捕りに行って、彼女が用意してくれた水筒の麦茶を飲んで、帰るべき時間も彼女が把握してくれていた。


しかしその関係は彼女が中学に上がった時に大きく形を変える。

中学の制服を着て、別の時間に違う学び舎へ向かう背中が、六年生になったばかりの僕に現実を叩きつけた。

それまでの僕は漠然と彼女の事を『姉のように導いてくれつつも、ずっと傍にいてくれる存在』と思っていたのだろう。


翌年、僕が中学生になっても意識に一度芽生えた距離は戻らなかった。

いつしか彼女に対する僕の口調も先輩と後輩という関係に相応しいものに変わり、僕が彼女を慕う気持ちも『姉弟』のそれではなくなっていった。


それでも唯一残った他者との違い、幼き日から彼女と共に過ごした証──


「『コケモモのジャム……と言ったら思い出さない?』ですよ。そうしたら相手が『ああ、あの時の』と返します」


──それこそがこの『彼女の密かな努力を共有できる時間』だった。


「そっか、コケモモだ。ついヤマモモって単語が浮かんじゃって」

「ヤマモモの方がずっと馴染み深いですもんね」


今日も夜の河川敷、国道の大きな橋の下で演劇の練習に付き合わされている……というのは本心ではない。

先輩は「ごめんね」と言うけれど、僕はこの時間がたまらなく好きだ。


「コケモモのジャム……と言ったら思い出さない?」

「ああ、あの時の。美味しく出来ましたか?」

「おかげさまで。あっという間に弟達に食べられて自分の口に入ったのは味見の分だけよ」


登山中に出会った男女、ヒロインが男性にコケモモを美味しいジャムにするコツを教わり、そして二人は街中で再会する……というストーリー序盤。

練習台とはいえ、その相手役を演じられる僕は幸せ者だと思う。

もっとも一番の幸せ者は、スポットライトを浴びるステージ上でその役を担う演劇部部長だろう。

物語の終盤では二人が愛を囁き抱き合うシーン、口づけを交わすシーンなどもある。無論本当に唇を重ねるわけではないけど、それを思うと少し胸が疼いた。

練習台の役目はあくまで台詞のみ、さすがに動作までは演じない。


「少し休みますか?」

「ううん、もうちょっときりのいいところまで」

「じゃあ次に会う約束をするところまでやりましょう」


先輩の声は国道をゆく車の騒音にも掻き消される事なく、美しいまま夜の闇に響く。

きっとそれに比べれば僕の声はくぐもった抑揚もぎこちないものだろう。


「あの、また会えませんか」

「私は六番街の角にある花屋で働いているの。あなたの好きな花は?」

「僕は……セントポーリアが」

「じゃあ私が店にいる時は、外から見えるところにセントポーリアの鉢を置いておくわ」


物語はこのあと男性がヒロインの店に通うようになり、二人は仲を深めてゆく。セントポーリアの花言葉は『小さな愛』だった……と男性が明かし、めでたく二人は結ばれる。

旅先で一度会っただけの女性に再会し、その場でいきなりそんな意味を隠しもつ花を挙げるなど随分と計算高い男だ。

そんな奴、友達にはなれそうもないな……なんて何故か物語のキャラクターにまで胸中で悪態をつきながら、でも今の僕は仮にもその役を演じている。


「OK、じゃあ少し休憩しましょう」

「はい」


僕らは橋の下から少し離れたところに備えられたベンチに並んで腰を下ろした。

先輩は持っていた水筒の蓋を外し、コップ状になったそれに麦茶を注いで一杯分を飲み干した。

あれだけ腹に力を籠めた声で台詞を発していれば、さぞ喉も渇くことだろう。


「飲む?」

「頂きます」


期待していた通りの問いかけに、不自然なくらい早いタイミングで肯定の返事をする。

なにか勘付かれただろうか?

上等だ、こんな遅い時間に人の姿も見えない河川敷へ二人で来ても平気など、よほど僕は異性と見られていないのだろう。


もう僕らは姉弟じゃない。在りし日の少年は恋という感情、その苦さと葛藤を知った。

僕が言葉遣いを変えていった事、それは無意識だけれど彼女を恋の相手と認識するための本能だったのかもしれない。

でも彼女は違うんだろう。

だから今、相手の秘めた感情を察し狼狽えればいい。クールビューティのそんな姿もまた、僕は見たいんだ。


「はい、どうぞ。まだあるからね」

「……どうも」


しかし先輩がその余裕を崩す事は無かった。

彼女がその唇をつけたコップを使う事に、自分だけが妙な意識をしてしまっているというのも悔しい。

僕はできるだけ平静を装ってお茶を一気に呷った。


「間接キッスだね」


意識すまいとした単語そのものを先輩が口にする。

僕は口に含んだお茶を吹き出してしまいそうになった。


「ひどいな、飲んでる最中に笑わせようとしないで下さいよ」

「あら、笑うとこだった?」


せめて笑うところにさせてくれ、僕はそう願った。

これで自分だけがぎくしゃくしていたら空回りが過ぎる。


もしかしたら彼女は僕の考えの上辺のところなんて見透かしているのだろうか。

昔から何かと僕の世話を焼いてくれていた人だ、そうだったとしても不思議は無い。

なのに彼女は今、僕が『叶うなら先輩を後ろの芝生に押し倒してしまいたい』と考えている事には気づいていないんだ。


「そっちの部活はどう? 忙しくないの?」

「今は2・3年生だけですね」

「3年生には最後のインターハイだもんね」


僕は水泳部に籍を置いている。

先輩の言うように今は顧問の指導も上級生に向いていて、1年の僕らはどちらかというと彼らにコースを明け渡すべき立場だった。


「それは演劇部も一緒なんじゃないですか」

「うん、部長達にとっては最後の演劇大会になるね」

「……文化祭は?」

「それもあるけど、演目は大会と一緒だし」


それはつまり今、僕が一緒に練習しているこのストーリーが3年生にとって最後の演目という事だ。


「だったらヒロインも3年生が演じなくていいんですか?」

「私もそう言ったんだけどね。でも来年に向けて、2年生も大役で場を踏んでおくべきだ……って」

「誰が言ったんです?」


問いを続けつつも、答えに察しはついていた。

そして僕は明らかに苛立っていた。


「そう言ったのは部長。顧問の先生も3年が納得できるなら良い事だって言ってくれたけど」

「詭弁ですよ、そんなの」

「……怒ってるの?」

「部長が先輩と主役を演じたかっただけだ」


最も制御の利かない感情は怒りだと思う。

できるだけ平静を努めていた先刻の意識など、今の僕からは失せてしまったらしい。

隠しても見透かされていた上辺の想いは、逆に剥き出しにする事で先輩にも予測不能なものになったようだ。


「ごめん……今日はもうお終いにする?」

「いいえ」


僕に乱暴を働くような度胸は無い。先輩を傷つけるつもりも、悲しませる気も無い。

だけど困らせる事だけは許してくれ、そう思った。


中学校と小学校に身の置場を分けたあの日、それまでの二人の関係は終わった。

今は別に環境が変わろうとしているわけではない、それでも構わない。

たとえこの関係がもう一度その形を変える事になろうとも、この『僕だけが共有できる時間』を失う結果を招こうと、それも厭わない。


「最後のシーンを練習しましょう。ほら、立って下さい」

「まだ最後の方は流し読みしかしてないよ」

「台詞、解りませんか?」


先輩は不安そうな面持ちで頷いた。こんなに彼女が小さく見えたのは初めてだった。

でも当然、身長は前から僕の方が高かったし、力だってずっと強い。


台本は無論、僕も読んでいない。

そのパートを彼女と誰かが演じると思うと、開く気になれなかったからだ。

でもラブストーリーの最後なんて相場は決まってる。


「先輩、手を」

「台詞わからないってば」

「僕はずっと貴女が好きだった」

「そんなラストじゃないでしょう、二人が山で出会った時はまだ──」

「──出会ったのは、もう十六年前です」


先輩の肩が竦んだ。

漸く僕の行動の意味を理解したのだろう、逃げ場が無くなったというのが正しいかもしれない。

ストーリーを無視した僕の言葉を、主人公の台詞と思い込む事はできなくなったからだ。


「コケモモジャムの作り方なんて知りません。歯の浮きそうな花言葉もわからない」


彼女を胸に抱き寄せる。

小さく震える背中は、とても『姉』や『クールビューティ』などという呼び名は似合わない。

でも、それでいいんだ。僕はもう弟じゃないし、周りの期待に応えるためにクールビューティを装った彼女に恋をしたわけじゃない。


信号のタイミングによるものか、気を利かせるかのように橋上の車通りが止んだ。

先輩がごくりと唾を飲むのが判った。


「好きです、先輩」


数秒、僕らは時が止まったように動かなかった。

やがて先輩はゆっくりと下を向き、小さな溜息をついたあとその鼻先を僕の胸に埋めた。


「大きくなったねえ……お姉ちゃん、びっくりしたよ」


僕に対し自分を姉と呼ぶ彼女を見るのは数年ぶりだった。

やはり自分は弟に過ぎないのか……そう考えた時、彼女は顔を上げ困ったような笑顔で言った。


「年上だもの、少しは余裕あるとこ見せたいわ」


両手で僕の胸を押して一歩分の距離を空け、軽く咳払いをして見せる。

もう一度にこりと微笑んだその顔からは、もう困惑の色は消え去っていた。


「交際を申し込まれたと受け取っていいのね?」


その女性は確かに僕の目を見据えて今の言葉を唱えた。

長い黒髪を指で梳かし、続けた言葉は。


「次のセリフはなんだったかしら?」


橋の袂、歩行者用の信号が点滅を始めるのが目の端に映った。

もうすぐまた橋上からは行き交う車のノイズが届くだろう。

どうか、その前に答えてくれ。


「『はい、喜んで』です」



【おわり】



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テーマ:ショート・ストーリー - ジャンル:小説・文学

  1. 2016/08/27(土) 13:59:18|
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  3. | コメント:2

夏向けショートショート3本立(原題/同じ)



1 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 20:40:36.05 ID:Q/YIMqnfO



第一話/バチン



もう夏本番と言っていい暑さなのに今のところ梅雨が明けたという発表はなく、夜の10時が迫っても一向に過ごしやすくならない。

決して断熱性が良いとは言えない1kアパート、しかも二階だからなおさら暑いのかもしれない。


この部屋がある棟は女性専用で、玄関には電子式のオートロックが備えられていたりとセキュリティ性は多少工夫されている。

その代わり玄関を開けっ放しにはできない仕様だし、その面に備えられたシンク奥の窓は10cm程しか開かないようになっているから、部屋全体の通気性はあまり良くなかった。


それでも先週までは我慢できた。だけどもう駄目、もう無理。

あまりに不快な湿度と厳しい暑さに苛まれ、今週からは遂にエアコンを使い始めていた。

だって日曜の夕方一緒に出かけた向かいの棟のNちゃんが『まだ使ってないの? 私、6月の終わりからエアコンかけてるよ』なんて、呆れたように言うんだもの。

涼風の誘惑に負けたのは彼女のせい、私は悪くない。



2 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 20:42:05.22 ID:Q/YIMqnfO


やっぱり文明って素敵。エアコンを発明した人にはノーベル賞を贈るべきだと思う。

私は伸びたTシャツの下にはブラジャーも着けず、下は脚のつけ根までたくし上げたハーフパンツという決して人に見せられない服装で、決して人に見せられないだらしない体勢をとりラタンのラグに寝そべっていた。

たぶん身体の下になっている左腕にはラグの目の型がついてしまっているだろう、知った事か。


グラスの麦茶には寝そべったまま飲めるよう、ストローを差してある。視線はTVに向けたままそれを手にとり、何度かストローを咥えるのを失敗しながら口をぱくぱくしていると不意に画面が消えた。

画面だけではない、TVの音はもちろん部屋の明かりも冷蔵庫の音も、そして私にこの快適を与えてくれていた愛しきエアコンまでも動作を停めている。

もしかして停電? でも雷も鳴ってないし、この時間に工事とかするわけもない。という事は──


──やっぱり、壁に耳を当てると隣の部屋からはTVの音が聞こえてる。

つまりこの部屋のブレーカーが落ちたんだ。



3 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 20:43:08.93 ID:Q/YIMqnfO


懐中電灯とか、たしか独り暮らしを始める時にお父さんが色んな工具と一緒にどこかに備えてくれたけど……うん、頭を捻ってもだめだ覚えてない。

どうしよう、真っ暗。怖いよ……嘘、怖くない。むしろ快適な寛ぎタイムを阻害されて不機嫌モード。

なんとか早く台所のブレーカーを上げなきゃ室温が上がってしまう、でも家具の角に小指をぶつけるのは嫌だなぁ。


あ、そうだ。家の電源とは切り離された電気製品が、すぐ手元にあるじゃない。

私は愛用のスマートホンを手探り、ホーム画面を下からスワイプして懐中電灯のアプリを起動した。

慣れた自室内を歩くには充分な明るさ、足元ばかりを照らしてて室内の物干しワイヤーに吊るしたタコ足を頭に喰らったのは内緒。


冷蔵庫の横の壁、ちょうど近くに置いている踏み台を寄せて上るとブレーカーのボックスに手が届いた。

開けてみるとやはり一番左のレバーが下を向いている。それをパチンと上げると『ピッ』という音と共にリビングのシーリングライトが点灯した。



4 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 20:43:58.46 ID:Q/YIMqnfO


エアコンもまたフラップを動かし始め、僅かに遅れてTVの音声が流れた。

ちょっとホッとする。強がりながらも、やっぱりほんの少しだけ怖かったらしい。


踏み台から足を下ろし、それを元の位置に戻そうとした、その時──


「えっ」


──バチンと音がして、またブレーカーが落ちた。再び部屋は闇に閉ざされる。

手に持ったままのスマートホンをすぐに点灯する。踏み台に上がり再びブレーカーを戻すと、さっきと同じ順序で電気製品が息を吹き返した。

今度は踏み台から降りずに数秒待つ。ブレーカーボックスの蓋も閉めない。バチン、しつこくも三度目の闇は訪れた。



5 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 20:45:14.44 ID:Q/YIMqnfO


電気製品を使い過ぎているのだろうか。でも思いつくのはTV、エアコン、冷蔵庫……今は洗濯機は動いていないはず。これらは今週、毎晩同時に使用する機会はあった。

暗闇の中でしばらく考えて、またブレーカーを上げる。数秒、やはり同じ繰り返し。視界は漆黒に染まった。


せめてTVを消してみようと考え、闇の中リビングへ戻る。既に電源を失ったそれにリモコンを向けても無駄だろうから、コンセントからプラグをひっこ抜いた。

もう一度リビングを抜け、台所の踏み台に上がる。ブレーカーを上げる時、心の中で『お願い』と唱えた。でも数秒後、無情にも黒いレバーはまた同じバチンという音と共に下を向いてしまった。


きっと故障に違いない。何かがよほど電気を喰っているか、それともブレーカーそのものの不具合か……そうしか考えられない。

それでも、認めないわけにはいかなかった。

このレバーが下がる時の無機質な音に、しつこく訪れ続ける闇に、私は恐怖を感じている。

視界がきかないからかもしれないけれど、耳には鼓動がやけに大きく伝わっていた。



6 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 20:45:54.02 ID:Q/YIMqnfO


スマートホンの照明は点けたままで、私は通話アプリの連絡帳を開いた。遅い時刻に構わず、向かいのNちゃんに発信する。

お願い、出て。願いながらゴクリと唾を飲み込んだ。


《もしもし? どしたの、こんな時間に》


5回のコール音を経てNちゃんは通話に応じた。私は強い安堵感を覚え、無意識にため息をついていた。


「ごめんね、寝てなかった?」

《うん、まだ起きてたよ》

「なんか家の電気がすぐ消えちゃうの。ブレーカーがおかしいのかもしれない」

《電気製品使い過ぎてない?》

「エアコンと冷蔵庫だけなんだよ、TVを消してみてもダメだった」



7 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 20:46:35.75 ID:Q/YIMqnfO


「ほんとごめんね、さすがにちょっと怖くなっちゃって……」

《ううん、気にしないで。どうしてもダメならウチにおいでよ》

「ありがと、でももうちょっと試してみる。あの……」

《わかってる、通話したままでいいよ》


私がかなり怖がっている事を察したのだろう、Nちゃんはクスクス笑っているようだった。すごくホッとしてしまったのが悔しい。


通話を繋いだまま、少し考える。

冷蔵庫を切るわけにはいかない。エアコンのプラグを抜き、またブレーカーを上げてみるしかないと思った。

それで今度こそレバーが落ちなければ食料品を無駄にする事は防げる。その後は申し訳ないけれどNちゃんの厚意に甘えるしかないだろう。



8 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 20:47:14.13 ID:Q/YIMqnfO


エアコン用のコンセントは高いところにあるから踏み台を持っていかないといけない。

通話は繋いでいたいけど、明かりも必要になる。スマートホンを耳から離して通話画面の右上にあるスピーカーのマークを押した。


「ハンズフリーにしたよ」

《そっちの棟の他の部屋は大丈夫なのかな》

「隣のTVの音はしてたと思う。それにウチのブレーカーが落ちてるのは間違いないし……」


両手に物を持ち、ささやかな灯りを頼りにまたリビングを戻る。私は踏み台を床に置いて上がり、エアコンのプラグを引っこ抜いた。

スマートホンのスピーカーから、Nちゃんが部屋のカーテンを開ける音が聞こえた。


《うん、他の部屋は安定して電気が点いてるみたい》


すぐに台所に戻り、また踏み台からブレーカーに手を伸ばした。レバーを持ち上げ、今度は聞く人がいるから「お願い」と声に出して言った。

リビングが明るくなり、冷蔵庫が小さくモーター音を発し始める。そして数秒後、またバチンと音がしてそれらは絶えた。



9 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 20:47:54.40 ID:Q/YIMqnfO


「だめだ……食べ物どうしよう。とりあえず暑いからベランダの窓を開けるよ──」


またリビングを振り返った。その時、Nちゃんはさっきまでとは明らかに違う怯えた声で言った。


《──ダメ、部屋から出て》

「え?」

《早く》

「なんで、どうしたの」

《いいから、隣の部屋に逃げ込んで!》


その時、私は気づいた。

うっすらと向かいの棟の明かりが注ぐリビングの窓、そのカーテンの隙間から片目で部屋を覗き込む人影に──



10 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 20:48:37.43 ID:Q/YIMqnfO


──その後、私はNちゃんの言った通り隣の部屋に助けを求め匿ってもらった。

Nちゃんはすぐ110番に通報し、間も無く警察が駆けつけた。

私が慌てて部屋から出た事に気づいた侵入者は逃げていたけど、残された梯子から割り出され翌日に捕まったらしい。


あの夜、現場を調べた警察官は私に「見て下さい」と言ってベランダの壁にある屋外コンセントを指差した。

それはところどころが黒く焦げ、縁のプラスチックが部分的に溶けて歪んでいた。その場には銅線の切れが残されており、それを差し込みショートさせていたのだという。

何度も停電させエアコンを効かなくして、私が暑さに耐えかねる事を狙っていたのだろう。


もしあの時、Nちゃんに止められる事なくベランダの窓を開け放っていたら──



第一話/おわり



11 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 21:23:43.31 ID:2Lq8bAWao



第二話/空っぽの帰港



明け方と言うにもまだ早い午前四時、僕はこの小さな港に係留している自前の釣り船に荷物を積み込んでいた。

釣り船といっても客を乗せるようなサイズではない。

せいぜい友人を2~3人も乗せれば、よく考えてスペースを残さねば釣り道具の積みようがなくなるくらいのささやかなものだ。

しかし今日は一人きりでの釣行、荷物の積み方に気を遣う必要は無い。


なぜ友人を誘わなかったか、それはこの船の調子に些かの不安があったからだ。

別に深刻な不具合が出ているわけではないが、前回の釣行時なんとなくバッテリーが弱々しく感じられた。

だから今日は『もしかしたら本当に釣りに臨む事はできないかもしれない』と覚悟をした上でここを訪れたのだ。



12 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 21:24:16.81 ID:2Lq8bAWao


キーを挿しスターターを捻ると、やはり前回以上にモーターが回る音は遅く弱い。

古いエンジンとはいえ寒い時期に比べればかかりやすいはずなのだが、それでも始動は叶わなかった。

まあいい、そうじゃないかとは思っていたから充電器も積んできてある。

朝まずめの出船は諦めざるを得ないが、完全にバッテリーが死んでさえいないなら時間をかければ息を吹き返すはずだ。


誰を待たせるわけでもない。

陽が昇ればキャビンの日陰に憩い、湾内の緩い波に心地よく揺られながらうとうとするのもいい。

そうしている内にチャージもできるだろう。


「──お早いですね」


キャビンに向かって屈みこんでいた僕に、斜め後ろから声が掛けられた。

振り返ると隣の船のオーナーだろう男性が、タラップを降りてくるところだった。



13 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 21:25:27.80 ID:2Lq8bAWao


「やあ、おはようございます」

「これから釣りに?」

「そのつもりだったんですが……こいつが言う事をききませんでね、なにせポンコツですから」


頭を掻きながら船のコンソールあたりを小突いてみせると、隣の船の男性は「なるほど」と苦笑いした。


「おーい、降ろすぞー」


男性には数人の連れがいた。

これから荷物を降ろすのだろう、その内の一人が波止の上から手助けを求めている。


「ああ、悪い。下にもう一人は欲しいな」

「わかった」


現在はちょうど満潮で、船に降りるにはタラップ三段ほどの高低差しかない。

しかし彼らが降ろそうとしている荷物には大きなクーラーボックスが含まれる。


「せーのでいくぞー」


恐らくレジャー用としては最大級の150Lサイズ、氷の入った特大のそれはさぞ重い事だろう。

タイミングを合わせ、四人がかりで船に積み込んだ彼らは揃って大きく息をついていた。



14 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 21:27:21.51 ID:2Lq8bAWao


「アンカーは?」

「最初に積み込んだよ」

「じゃあみんな乗り込もう」


隣の船は僕のものに比べればとても立派で、スターターの音も軽やかにエンジンは一発始動した。

かなり外洋にも出られそうな船だが、アンカーを気にしていたという事は今日は浅場で釣るつもりなのかもしれない。


「お気をつけて、良い釣果を」

「ありがとう、そちらも早く船が機嫌を直してくれるといいですね」

「ははは……まあ気長に待ちますよ」


エンジンの回転が上げられ、白い船体が後進する。

ゆっくりと係留の列を脱し、舵を握る男性は僕に軽く会釈をしてサングラスをかけた。

僕も会釈を返し、湾内を徐行しつつ出てゆく彼らを見送った。

港の出入り口があるその先、東の空は僅かに明るくなり始めていた。



15 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 21:27:56.98 ID:2Lq8bAWao


それから三時間ほど経った頃、僕は早朝に目論んだ通りキャビンの日陰にマットを敷いて寝そべっていた。


充電が満足なレベルに達するには今しばらくかかるだろう。

まだ涼しいこの時間、こうして待つのはなんら苦ではない。

時おり港を出てゆく船の音に目を覚まし、その度にチャージャーのLEDが何色になっているかだけを確認してまた瞼を閉じる。

潮の香りと心地よい波音に包まれ、いくらでも寝ていられそうだ。


また船が通りかかった。薄く目を開け、相変わらず黄色のままのランプを確かめる。

たとえこのまま釣りには出られなかったとしても、これはこれで良い休日だ──そんな事をぼんやりと考えていると、今度のエンジン音はやけに近づいてくる事に気付いた。


その主は明け方に出て行った隣の船だった。

少し戻りが早すぎる気がするが、なにかトラブルでもあったのだろうか。

僕はむくりと上半身を起こした。



16 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 21:28:30.88 ID:2Lq8bAWao


「お帰りなさい」

「ああ、どうも。まだ船の機嫌は直りませんか」

「ええ今のところね、持ち主と同じく寝ぼけたまんまです」


一人がロープを手にタラップを登り、波止に備えられたビットにそれを舫った。

どうやら忘れ物を取りに戻っただけではなく、本当に引き上げるようだ。


「お早い戻りでしたね」

「散々の釣果でしたよ、雑魚も掠らない。こんな大袈裟なクーラーを持ってきたのが恥ずかしいくらいです」


決まりが悪そうに顔を曇らせる男性。

他の仲間達はいそいそと積荷を纏め始めた。


「まったく、新品のアンカーも根掛けて無くすし踏んだり蹴ったりだ」

「そんな日もありますよ」

「そちらはこれから釣りに出るというのに、景気の悪い事で申し訳ない」



17 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 21:29:18.46 ID:2Lq8bAWao


潮の加減や水温、様々な要因はあれど結局のところ釣果は時の運というもの。

残念ながら今日の彼らは豊漁の神に加護を受ける事は叶わなかったようだ。


「渡すぞー」

「はいはい、掴んだよ」


波止の上に立つ一人がさほど重くもなさそうにクーラーボックスを片手で引き上げる。

人間でも入りそうなそれが空っぽとは、なんとも切ない事だ。



第二話/おわり



18 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 22:06:52.85 ID:2Lq8bAWao



第三話/交替人員



──ある日を境に、高山さんは変わった。



戦後間もなく開院し、現在では特に心臓手術について定評のある鏡尾病院。

私たちは看護師としてそこに勤めている。


経験が豊富であれば当然技術レベルは向上する。

確かにこの病院は他の追随を許さない程の数、心臓手術をこなしてきた。

でもそれが全て成功するわけは無いし、術後にトラブルが発生した事例も一定の頻度では存在する。

たくさんの手術を行い多くの命を救ってきたという事は、それに比例してその病院で亡くなった患者も多数に上るという事に他ならない。


それらの中で特にレアケースだった例として、突発性の心疾患で運び込まれた患者の胸を開けると内臓逆位だったという話を聞いた事がある。

心臓も他の臓器も、鏡に映したように左右逆の配置・形状だったのだ。

そういった症例の患者を診た事の無い医師は思うように施術を進める事もできず、残念ながらその患者さんは亡くなってしまったという。


病院名に『鏡』とつくのに鏡映しの命を救えなかったとは皮肉な話だ。

しかし今の私はそれとはまた別の『鏡』に悩まされていた。



19 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 22:23:19.72 ID:2Lq8bAWao


私たち女性の看護師の内で独身の者の一部は、その病院の福利施設である女子寮に住まっていた。


『ねえ、やっぱりチーフの時も鏡に落書きがあったって』


今日の夕方、同じシフト上がりだった吉沢さんは私の部屋で雑誌を読みながらそう言った。


『やめてよ、このあとお互い一人で寝るんだから』

『ごめん、どうしても考えちゃうんだよ』


築20年が迫るお世辞にも綺麗とは言い難い寮。

噂によればこの施設を新築する頃、同時に改築された病院の北棟から発生した廃材を多数再利用しているという。

確かにこの寮には目に見える範囲でもいくつか建物の年代にも増して古いと思われる構造物があった。

例えば廊下の電灯、食堂のシンク、そして吉沢さんが口にした『共同洗面所の鏡』もそのひとつだった。


吉沢さんが自室に戻ったあと独りきりになった私は、それらの会話とここ最近の出来事を思い出して得体の知れない恐怖に襲われていた。



20 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 22:24:44.92 ID:2Lq8bAWao


2ヶ月ほど前の夜、同僚の金切り声が廊下に響いた。

何人かが慌てて駆けつけてみると、声の主は鏡の前に屈み込み震えていた。

そして鏡を見ると、そこにはまるで血を指でひいたかのような文字でこう書いてあった。


《助けて そこにいる私は偽者です》


皆、その文字を読み取るに多少の時間を要した。

なぜならそれは字の向きも並びも左右反対だったからだ。

あまりの不気味さに誰も言葉を発する事ができない中、一人だけ前に歩み出る者がいた。


『馬鹿馬鹿しい悪戯ね……「私」って誰の事よ』


彼女こそ『高山』さんだった。

美人というタイプではないけれど、おっとりとした性格とそれに見合った可愛らしい容姿で誰からも好かれる人だった。

高山さんは洗面台に備え付けられた化粧落としのシートを2枚引き出し、それで鏡を拭こうとした。


『つまらない事で大声なんか上げないで頂戴』


屈み込む同僚にそう吐き捨てた高山さんの声や表情は、今まで誰も見たことのないものだった。

そう、それはまるで──


『あら? ちっとも落ちないわ、どうしたのかしら』

『ねえ……これ、鏡のガラス内面に書かれてるんじゃ……』

『ふん、手の込んだ悪戯ね』


──正反対の性格をした別人のように感じられた。



21 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 22:25:40.68 ID:2Lq8bAWao


それから今までの間に4回も同じような出来事があった。

鏡に現れる悪戯、裏面から書いたとしか思えない血糊の文字。


でも鏡というものは、ガラス板の裏側に不透明なメッキを施して作られている。

つまり表から透けて見える落書きは、誰も触れないはずの境界面に書き込まれている事になる。

そしてその文字は誰も見ていない内に消え去ってしまうのだ。


度重なる人の仕業と思えない悪戯に怯え、鏡を撤去しようと言い出す者もいた。

しかし鏡はコンクリートの壁に埋め込むように施工されていて、業者でなければ外す事は叶いそうになかった。


2度目の悪戯の時、『益田』さんがおかしくなった。

3度目には後輩の『谷』ちゃんの雰囲気が変わった。

4度目の時は皆が怖がっていた『金森』チーフが、別人のように優しくなった。



22 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 22:26:21.53 ID:2Lq8bAWao


そしてそれらの人には、ある共通した変化が現れていた。


『あの、チーフ……ここの字が違います』

『あらごめんなさい。嫌だわ、歳かしらねぇ』


字が下手に、不正確になっている。

そして幼稚園児のように箸の使い方が不器用になっている。

それはまるで『慣れない左手』でその動作を行っているかのようだった。


もう随分前から私の中には、ある仮説が立っていた。

もしかして、変わってしまった人たちは──


「──そんなわけない、か」


わざと声に出して仮説を否定する。

あくまで恐怖を紛らわせただけと解っていても、そうしなければならなかった。

何故ならこれから就寝する私は、その洗面所に向かうつもりだったから。

だって冷静に考えれば有り得ないようなオカルト仮説なのに、その馬鹿げた恐怖に縛られて歯も磨かず髪も梳かずに寝るなんて嫌だった。



23 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 22:27:14.69 ID:2Lq8bAWao


できるだけいつもと同じ動作と心持ちで部屋のドアを開ける。

少し薄暗い廊下を歩き、洗面所を目指す。

途中、いくつもの個室の前を過ぎ、中から聞こえるTVの音に少しだけホッとした。


吉沢さんの部屋の前、影山さん、矢吹さん……その次が谷ちゃんの部屋。

彼女は少し暗い性格の地味な子だったのに、今はやけによく喋るようになった。


藤崎さんの部屋を過ぎ、小島さんの部屋を過ぎた……その次が──


「こんばんは」


──心臓が止まりそうになったけれど、声を上げる事はなんとか堪えた。

目を遣っていた扉が突然開いたのだ。

そこから現れたのは部屋の主、最初に変わってしまった高山さんだった。



24 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 22:27:53.64 ID:2Lq8bAWao


「……こんばんは、こんな時間からお出かけ?」

「ええ、今日は準夜勤だったから。もう食事もコンビニ物で済ませようと思って」

「それはお疲れ様、いってらっしゃい」


努めて自然に言葉を交わし、彼女の前を通り過ぎる。

彼女もこちらに背中を向けた……そう思った時、高山さんは思わぬ言葉を発した。


「今夜は鏡に何事も無ければいいわね」

「どういう意味?」

「別に、あと一度だけ悪戯が起きそうだと思ったのよ」



25 : ◆NdSwyytUJslS [saga]:2016/07/15(金) 22:31:10.87 ID:2Lq8bAWao


なんの根拠があっての発言かは解らなかった。

ましてや彼女は最初の悪戯の日、それを馬鹿馬鹿しいと言い放った人だ。


「気にしないで。おやすみなさい『天田』さん」

「……おやすみ」


疑念は解けなかったけれど、私は気にするのをやめた。

真意の掴めない言葉に少し気分を害した私からは、幸いにも恐怖心が失せていた。


たぶん今の私は不貞腐れたような顔をしているだろう。

口を尖らせて、眉間に少し皺を寄せていると思う。

わざわざまた弱気な顔に戻る必要はない。

私は敢えて表情を変えもせず、そのまま例の鏡に向き合った。



そこに映る私は、笑っていた。



その時、私は理解した。

鏡映しで正反対、鏡映しで対称形。

さっき高山さんが言ったあと一度だけの悪戯、変わってしまう最後の一人は──



第三話/おわり


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テーマ:オリジナル小説 - ジャンル:小説・文学

  1. 2016/07/16(土) 08:15:15|
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臆病な強者




「──まさか単機で戻るとはな」


このイーストエンド空軍基地の司令たる老兵は、ぽつりとそう呟いた。彼は過去に幾度も死線を潜った叩き上げ、いつもは歳に似合わぬ鋭い眼光で部下達を竦み上がらせる程だが、今日ばかりは幾分か肩の力が抜けているようだった。


「戦闘機乗りが作戦から戻らぬ事など珍しくは無いのでは、ブライアン中佐殿」


バーンズ大尉が答えた。視線は上官を捉えず、窓越しに滑走路の方へ向けられていた。


「こと貴様らにそれは当てはまるまい」

「同じです。一度空に上がれば生きるか死ぬか、みんなそのどちらかの未来しか無い」


基地にスクランブルの警報が鳴ったのは未明だった。敵機が本土に接近するのは暫くぶりの事、既にこの戦争の勝敗は決したと思われており、すぐに離陸が可能な機体は多くは無かった。

敵機の編成は小規模であるという情報だった。真っ先に出撃準備が整ったのは二機のF-15C、バーンズとティコ各大尉の両エースは警報から僅か7分で離陸した。基地の誰もが「この後に続く機は全て無駄足になる」と考え、それは現実となった。

午前5時18分、二機は接近する敵機と遭遇し空中戦となった。敵編隊は爆撃機一機と四機の護衛戦闘機、まさに最後の一矢を報わんとするために飛来したなけなしの部隊だった。


「敵部隊は全滅、現在調査中だが爆撃機の腹には核が載っていたかもしれんな」


しかしその空域で墜ちた機体は六機、敵機と残りの一機はティコ大尉のものだった。

司令官は部屋に掛けられたアナログ時計を一瞥してから煙草に火を点けると、煙を吐き出しながら言葉を続けた。


「相手が降伏勧告を受け入れたのは5時30分ちょうどだったそうだ」


もしも敵爆撃機が本当に核を搭載し最後の攻撃を目論んでいたとしたら、降伏を受け入れたのはその希望が潰えた時と考えるのが自然だ。


「……随分長い空戦だったようだな。終戦と同時に英雄が命を落とすとは、解らんものだ」


バーンズ大尉が僚機の墜落を報告したのは終戦宣言より後の5時45分頃の事だった。


「自分達は英雄ではない……か」


時計の下には額縁が提げられていた。そこにはいくつもの勲章が並んでおり、その内の幾つかはまさにエース二人がその活躍によって基地に齎した物だった。


「死ぬのが怖い、臆病者であるが故に誰より強くなった。それだけの事だからです」


それはティコ大尉が酒を飲んではよく零していた言葉だった。バーンズもまたその言葉、考え方を気に入っていた。


「ならば彼の最期はどうだったね? 彼は臆病者のまま散ったのか」


問われたバーンズは言葉に詰まり、思い返すように目を閉じた。


《──聞いたか、バーンズ。戦争が終わったってよ》


それは全ての目標を撃墜して間も無くの事だった。ティコは衛星リンクを切断した無線でバーンズに話しかけた。


「ああ、聞いた。何も返答はしていないが」

《俺もだ。結局、生き残っちまったな》


このまま基地に帰ればいよいよ自分達はこの戦争の英雄だ、ティコは自嘲的なニュアンスでそう語った。


「総撃墜数はお前が72か……おめでとう、エース」

《よせ、参加した作戦の違いに過ぎん》


朝焼けに染まり始めた空、しかし海はまだ大半がどす黒く見えた。幾度にも渡る戦闘の中いつかはこの波間に墜ちる日がくるだろう、バーンズはそう思っていた。


《何を考えていた?》

「……何も」

《嘘をつくな、俺には解る》


二人は渇望していた。自分を墜とす者が現れる事、全力をもって戦い敗れる事を。

臆病者が生き残るためにたくさんの命を奪った、それが英雄的な行為であるはずがない……そう二人は考えていた。死を怖れる本能に基づき戦う彼らは、いつしかそれよりも大きな衝動を伴う罪悪感という魔物に取り憑かれてしまったのだ。


《残弾は?》

「400と少しだ」

《OK、大差は無い》


そしてその罪悪感から解放される術は、一つしか無かった。


「よせ、ティコ。何をしようとしている」

《腹のサイドワインダーを棄てろ》


自分を上回る技術をもって墜とされる事。そしてその相手は自分以上に臆病な強者であったと信じる事。


《バーンズ、右に旋回を》

「ティコ! 正気か!」


ティコ機が左に90度ロールした。鋭い軌跡で水平旋回するイーグル。あのノーズがもう一度こちらを向いた時、自分は墜とされる。バーンズはそう直感した。

今からアフターバーナーをフルにして空域を離脱したらどうなる? 彼の脳裏に事態を打開しようとする考えが巡り、しかしそれは一瞬で否定された。

後から加速を始めたところでティコ機から逃げ切れるはずが無い。そして何よりもバーンズ自身が逃げない事を望んでいた。魔物から解放されるために、相棒と自分のどちらがより臆病者なのかを知るために。


「お前と飲む酒は悪く無かったよ、ティコ」


バーンズは無線を遮断し、操縦桿に力を籠めた。右翼のエルロンが上に、左が下にめくれ上がり機体は瞬時に右ロール。ティコ機にひけをとらぬ鋭い旋回に入り、翼端から筋状の雲が生まれた。


「ティコは……彼は勇敢でした。この戦争の英雄はティコ・ブライアン大尉です」


随分の沈黙の後、バーンズは上官に答えた。視線は滑走路に向いたままだった。


「生き残ったのは息子ではない、貴様だ。勝利の象徴たる英雄は生きていなくてはならんのだよ」

「私は英雄などではありません」

「それはやがて明らかとなろう。退出してよし、最後の任務ご苦労だった」


敬礼を残し司令室を出ていくバーンズ、それを見送ってから中佐は机に置かれた内線の子機を取りドックに通話を繋いだ。


「バーンズ機のガンカメラ記録を抹消しろ。戦争は終わった、調査の必要は無い」


老兵はほとんど長さの尽きてしまった煙草を一口吸い込みガラスの灰皿に揉み消すと、橙色に近付き始めた午後の日差しが注ぐ窓に目を遣った。

バーンズ大尉が視線を送っていた先、滑走路の向こうには一箇所だけシャッターが開いたまま、帰らぬ主を待ち続ける格納庫があった。



【おわり】



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テーマ:ショート・ストーリー - ジャンル:小説・文学

  1. 2016/03/01(火) 12:43:25|
  2. その他
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空っぽが満ちた器




「これで満足か、人でなしめ!」

中年の男は相対する若者に怒鳴った。
言葉は強くとも彼の風貌は満身創痍と表すに相応しかった。顔の皺も頭の白髪もここ数日でぐんと増し、睨みつける目にも覇気は窺えない。

「よろしい。どうですか? 十数年も連れ添った最愛の妻を殺めた、今のお気持ちは」

「違う! 妻を殺したのは俺じゃない!」

千切れそうなほど首を横に振る男の手には、べったりと血糊を纏う包丁が握られている。足元に伏せる女性を何十回も刺し、その命を奪ったのは間違いなく彼だった。

「早く……子供を解放してくれ」

男は父から受け継いだ会社の社長だった。
父が会社を今の規模にまで育て上げた、そのためにはいくらかの犠牲を払う必要があった。利益率が高くなる手法を優先し、黎明期を支えた下請け業者を切り捨てる事もあった。切り捨てられた企業は破産し、オーナーは自殺した。今ここにいる若者こそ、そのオーナーの息子だった。

「まだです、貴方が生きているじゃありませんか」

「貴様が殺せばいいだろう! 早く子供を解放し、俺を妻の元へ送ってくれ!」

「順番が違いますよ。子供さん達にはお父さんが自らの命を絶ったら逃がしてあげると伝えています」

薄暗い貸し倉庫の一室、子供たちが捕らわれているのもまたすぐ隣りの同じ場所だった。
父親が自ら命を絶ったところで彼の子供達が無事解放されるという保証などどこにも無い。それを理解している男は悩んだ。
若者は子供達の元には共犯者を待機させていると告げていた。そうでなければ彼は妻を殺める前に若者に刃を向けていただろう。

「……必ず子供達を逃してくれるのか」

「それは約束します」

この惨劇の前、若者は一度スマートフォンのスピーカーで子供達の声を両親に聞かせていた。「パパ、ママ、助けて!」「怖いよ、殺される!」いかにも誰かに怯えた声で姉弟は叫んでいた。しかしそれが録音でない保証もまたどこにも無かった。

「その妻の血に濡れた包丁で、自分の喉を裂きなさい」

若者は感情の無い声でそう勧告した。
しばらく躊躇い、男は包丁を両手に握り直すと自らの喉元に当てた。手の震えによって刃は自然と動き、その皮膚を僅かに裂いた。滲んだ血が次第に伝い落ちる筋となり、白いカッターシャツの襟にじんわりと染みていった。

「必ず……子供達を……」

男に死や痛みへの恐怖が無い筈はなかった。しかしそれよりも大きな絶望があった。妻を殺めた彼には、この先の未来に持てる希望など残ってはいなかった。唯一それを託せる者、子供達にただ生きて欲しかった。

ぽたぽたとコンクリートの床に染みが生まれ、その数を増していった。赤い筈のそれは薄暗さ故に黒にしか見えなかった。
熱を伴う痛みに男は言葉にならない声をあげ、噎せ返っては口からどす黒い泡を吹いた。やがて声は掠れ、聞こえるのは液体が気体に掻き混ぜられるぶじゅぶじゅという音だけになった。

「素晴らしい」

若者は眉ひとつ動かさずに呟き、ゆっくりとしたテンポで感情の無い拍手を送った。
がくりと膝を落とした男の首から、一段と勢い良く血が吹いた。最も大きな血管が切断された合図だった。もはや命を取り留める事は無いと覚悟した彼は手の力を強め、遂にその喉は横一文字に切り裂かれた。
前のめりに崩れ落ちた男は、ちょうど妻の亡骸を抱く形となった。

「いい事を教えてあげましょう、僕に共犯者なんていませんよ」

若者は胸元から今度はスマートフォンではなくトランシーバーの子機を取り出し、そのスイッチを入れた。すぐにザーザーというノイズが発せられる、それはもう一台の子機は会話ボタンが押されたままになっているという事だった。

「起きているかい?」

若者は子機に向かって問いかけた。少しの間の後、割れた音で子供達の声が響いた。

《ねえ助けて! パパは!? ママは!?》

子供達の声に伏せた男が僅かに反応したのを見て、若者は初めて薄く笑った。

「よかった、まだ聞こえるみたいだ」

《何が……お願い、早くここから出して!》

「いいか、よく聞くんだ」

若者は子供達と男、双方に向けてその言葉を発した。
この時こそが彼の最終的な目標だった。幼き日の自分に齎された絶望を、それ以上の形にして与え返す事こそ彼の復讐だった。

「パパが自殺すれば助けてあげると言ったね」

男は首を動かせないままに、上目遣いに若者を睨んだ。若者はそれを確かめてから、さも満足そうに子機に向かって告げた。

「残念だけどパパは君達を捨てたよ。今から殺しに行くからね」

男は遠ざかる意識の中、何度も違うと叫んだ。しかし喉を切った彼はそれを声にする事は叶わなかった。

《嘘だ! 嘘だよ! 嫌だ、パパ助けて死にたくない! パパ!パパ!》

若者は高らかに笑った。
達成感も感慨も無く、また嬉しくも悲しくも無かった。ひどく渇いた声で笑う彼の頬だけが透明に濡れていた。

これで子供達を殺害すれば全て終わる。目標を果たせば自分は空っぽになる、彼はそう考えた後すぐに首を横に振り思い直した。

幼きあの日から、彼の人生はずっと空っぽのままだった。



【おわり】



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テーマ:ショート・ストーリー - ジャンル:小説・文学

  1. 2016/02/27(土) 18:41:22|
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